2013年10月24日木曜日

沖縄県海軍壕公園見学してきた。

 人生初、沖縄に行ってみた。空港から近く、最初に訪問したのは海軍司令部壕。内地に平穏無事に住んでいる自分は沖縄に行って直ぐ観光する気にはなれなかった。先人達の甚大な尊い犠牲の上に生きさせて頂いているので、敬意を表したかった。

 海軍司令部壕は旧日本海軍が小禄飛行場(現那覇空港)を守るのに設営した。海軍なのに、陸戦をせざるを得なくなって居る時点でもう希望が無い状況だったと思う。
 激戦必至の沖縄に配置された海軍第226設営隊の隊員の心情は計り知れない・・・。

 そんな英霊の皆様にご挨拶がしたかった。英霊の皆様に敬意を表すのは平穏無事に生きている人間の義務ですから。卑しい大陸や、当時日本の一部だったキチ○イの半島がどう言おうと知ったことでは無い。

 
戦況は絶望的、 昭和20年6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。大田司令官は6日夕方に辞世の句とともに訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜には「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を打って後事を託している。包囲が次第に狭められていく中で壕内に重火器はほとんど残っておらず、歩兵による突撃で応戦するのが精一杯の状況となった。
 11日午前7時、司令部壕に集中攻撃が加えられた。同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられている。13日午前1時、大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結した。

 

「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報電報の現代語訳

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

・・・wikipedia 「海軍司令部壕」「大田実」より抜粋。

 大田司令官の悲痛な電報を見たら涙が止まらない。日本海軍陸戦隊の壊滅状態には触れずに、非戦闘員の住民を慮った電報をうち、司令官含め軍幹部は無念の自決を遂げている。古き良き、武士道の鑑のような司令官だと思う。戦死した軍人、住民の安らかに眠られることを願わずには居られなかった。